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はてな企画に合わせました

第8回 短編小説の集い参加作品「グミ。」

はじめまして。ふらりと立ち寄ったらはてなさんで面白い企画があったので、新規ブログを取得してさっきさらっと書いてみました。

宜しくお願いします。

ブログ開いたばかりでハンドルは今即座に思いつかないので「グミ。の人」でいいです。

 

novelcluster.hatenablog.jp

 

「グミ。」

 

 そんな業務なんて、佐保子の管轄じゃないのである。

 あるいは、管轄とは言えないのである。

 またあるいは、管轄とはいわく言い難いのである。

 またまたあるいは、管轄として認められないのである。

 はい、最後の一文、偉そう。相手は上司だ。上司に対する感覚は心からの服従の体でなければならぬ。田中佐保子はそんなふうに自分を厳しく戒めた。

 そもそもの発端は、上司の衣笠が佐保子に業務を押し付けたことから始まったのだった。

「ねえ田中君、新人教育の件だけれども」

「はい」

 佐保子は新卒三年目の古新人である。同じ部署での後輩は今回の新人たち四人が初めてになる。

「実はね、昨日彼らの自宅に一軒一軒電話してみて、入社式前に業務説明の確認したのね。そしたらエクセルのね、この部分が出来ないとか言いだして。一人はワードも打ったことないんだとか言いだして。全部スマホで片づけてきたから、簡単にできると思ったって」

「そうですか」

 衣笠の言葉は長い。佐保子は敢えて短く返答した。有りがちすぎてネットでももう話題としてはまとめサイトからもレスが外されがちな話題だ。

「で、社内で少し社員に教えてもらってねって言ったら憤慨して、パソコン教室に申し込みます、教室の費用は会社に負担してもらっていいですね、とか言いだしてさ。うちの部署で使わないパワーポイントとか画像編集の何とかとかCADとかの講習のセットですってさ」

 半泣きである。そろそろ五十に手が届く、娘二人が高校生と中学生の一番金のかかる時期のいい年したオッチャンだというのに、なんだこの泣けば許されると思っている節は。佐保子は口の端をひん曲げて応答した。

「それって、部署ドサ廻りなんか平気で賜りますっていい姿勢じゃないですか。沖縄支店でも鳥取支店の現場でも楽しく転勤してくれるってことでしょ。そんな運動部体質のガッツある新人さんなんだから使わない手はないですよ。投資しましょう、ね、ト・ウ・シ」

 すると衣笠は涙をひっこめた。野球の衣笠も鉄の男だったが、上司の衣笠もたたき上げの鉄人だ。わが社の28号目かどうかは知らないが。――で、口調をガラリと変えて鋭く言葉を発したのだった。

「田中君、三年目だよね、君。その女子大生みたいな馴れ馴れしい言葉遣い、どうにかならない? 新卒の子が四人も部署にいたら、君のこと軽蔑すると思うよ」

「あ、はい、申し訳ございません、気を付けます」

 応答の瞬間に佐保子ははっと気づいた。衣笠は自分の我儘を通すために別の因縁をつけてきて立場を逆転させたのだ。猫はケンカの折より高い場所に座を占めたほうが圧倒的に心理的に有利になるというが、それと同じだ。部下に有利になりかけた空気を引き戻し、自分のものにする。そして欲求を飲ませる。しまった、と佐保子が悔しい気持ちになった頃、もう衣笠は悠々と命令を口にしていた。

「じゃあ、田中君、新人教育ね、お願いします。あの子たちのエクセルとワード見てあげて。最低でも大卒の子たちだから、すぐに使えるようにはなると思う。アクセス以外は見る必要ないから」

 ……そのすぐっていつからのすぐだ。それまで私の日常の担当業務はどうなるんだ。早出残業か? 休日出勤か? まさかサービス労働なんてことはないですよね?

 佐保子は恨めし気に衣笠を見た。背中の荷が軽くなった衣笠は口笛で「ロッキーのテーマ」なんか口ずさんでいる。案外軽快で音が正確で、上手い。ますます恨めしい。

 今晩衣笠が晩飯にコロッケなんか食べててお嬢ちゃんたちのどちらかがふざけて「パパのご飯姿」とかラインに送るようなことがあったら、それが心霊写真になるように生霊を錬成して送り出すのだ、と佐保子は決意した。

 

 四月第一週、平均残業時間五時間半。休日労働時間八時間。

 第二週、四時間半。休日労働時間十八時間。

 第三週、四時間。休日労働時間十五時間。

 新人たちは思ったよりもはるかに自分本位だった。本当に大卒なのかと見まごうほどのだらしなさ。入社式にグミを噛んでいてたしなめると「低血糖なんです」と臆面もなく言い訳。ダンブルドア似の社長訓辞のお時間でグミか。お前は性悪スリザリンでもご希望なのかと突っ込みたい気持ちを必死で抑えると、手の中にイチゴ味のグミをねじ込まれた。「サービスです、これからよろしくお願いします」というコメントまで付いてきた。ほほうサービスか、お前が私のサビ残の実体を知ったらどんな気持ちになるかね、という悪態が頭の中で老婆の声となって駆け巡る。

 佐保子婆さんの受難は止まらない。

 勤務時間が終わっても新人たちはなかなか帰らない。どうやらネットでサッカー中継を延々と見ている。スポーツファンが多い会社ではそういうちょっとした逸脱も大目に見てもらえるのだが、入社した月でそれはないだろうよ、と婆さんは溜息をつく。

 おまけにその日、ダルビッシュ似の新人の一人が婆さんに声をかけてきた。

「早く帰りましょうよ。女の人は夜遅くまで仕事しちゃいけないってうちのお母さんが言ってました」

 婆さん田中佐保子はついに切れた。ダルビッシュに切れた。

「あなたね、これは仕事なの! 私がやってるのは業務管轄外の仕事をやった皺寄せでたまった日常のお仕事なの。早く帰りましょうよって言いたいのは本当は私なの。でも終わらないの。終わらないからやるしかないの!」

「仕事遅いんですか。じゃあ僕手伝いますよ」

「あなたは帰ってちょうだい」

 邪魔よ、と言いたい気持ちを佐保子はぐっと飲みこんだ。お前らお荷物のせいであたしゃ一人ブラックだよ、と言いたい気持ちも飲みこんだ。ついでに、「お前死ねよ」という毒づきも飲みこんだ。そう、机の一番向こうでは上司の衣笠が得意先と電話応対をしながら半身でこちらの様子を窺っている。そも、たたき上げとは耳の活動と目の活動が独立することもある、大変危険な生き物なのだ。舐め腐っているとガリっと引っかかれる。

 

 佐保子がぷりぷりしながらその日の業務を終えたのは、もう九時を回った頃だった。業務内容からもう二時間は残りたかったのだが、定時での余計なエネルギー消費が理由かミスが明らかに増え、とうとうやってられなくなったのだった。

 制服を着替えて社外に出る。夜の空気は帰宅ラッシュの煽りを受けて埃っぽく、何の癒しも与えてくれない。気のせいか気持ち悪くてふらふらする。昼は摂らなかったし、朝以来ブラックコーヒー以外口にしていない。

「ご苦労様です」

 声がした。

 新人ダルビッシュが立って笑っている。片手にグミを持って。

「なんだ、あなたなの、新人なんだから疲れているでしょうから帰りなさいって」

 佐保子婆さんはもはや、日本語までめちゃくちゃになっている。が、そのめちゃくちゃな日本語を、ダルビッシュは割と抵抗なく受け止めたようだった。手の中にグミを握らせる。

「グミってね、すぐ吸収されて腹持ちいいんですよ。それでOLとか全員食べてるって思ってた」

 ダルビッシュのくれたグミは、悔しいが今の佐保子には美味だった。

 ものすごく、美味だった。

 悔しくて泣けてきた。佐保子婆さんはグミに負けた。敗れた。ちくしょう、私はワンコだ。グミに尻尾を振ってるワンコだ。そう言えば本物のダルビッシュもワンコ何匹も飼ってるっけ。

 そこでダルビッシュはハンカチを取り出して泣いている佐保子に言ったのだった。

「俺おごりますから飯、食いに行きましょうよ、あとドライブ」

 涙が引っ込んだ。多分衣笠よりも早かった。

 一人ブラックな先輩の残業上がりを待ち受けるか。新手のナンパ過ぎて、ちょっと婆さん今の時代についていけねえよ。

 そして最悪なことにダルビッシュは了解してくれるとばかりに停めていたマイカーのドアを開けた。

 

 飯の時間も、続くドライブの時間も、佐保子は帰る帰ると言い続けた。だがダルビッシュは聞きなれているらしく上手に聞き流してしまう。悔しいがそうなってくると佐保子の頭に最後までつきあってやろうじゃないかという気持ちが起こってしまう。最後とはなんだ。つまり男と女の一大合戦場、ラブホだ。

 どうせ二十代前半の男なぞ、女が好きなんじゃなくて女の身体が好きなのだ。その証拠に佐保子婆さんは連日の残業や休日出勤でガタガタに疲れ切っている。しかしダルビッシュは佐保子の疲労など見えていない。だから飯だドライブだという。

 飯。佐保子が行ったことのない西新宿の小さなにんにく専門店だった。今日は男性客でいっぱいだ。ここで食えなのかと佐保子はげんなりし、それでも連れてきてくれたことに敬意を表して、アリシンのむせかえるような臭気の中ペペロンチーノを頼んだ。

 ドライブはというと横浜まで向かうという。新宿から横浜かよ、と佐保子は突っ込みたくなった。とんでもない長旅だ。横浜まで行って何するんだろう。高速に乗ってその単調な光を見ながら、眠くなる。

「佐保子さん見て見て」

 いつの間にか下の名前で呼んでいたダルビッシュが振り返る。ベイブリッジもまだなのに、と佐保子はぼんやりしていたが、車のドアから飛行機がランプを点滅させながらゆっくり降りていく姿が目に入ると、頭から疲れが吹き飛んだ。

「羽田ね」

 空港に向けて夜の便が着く。羽田の延々と続く滑走路にゆっくりと舞い降りる姿は、轟音さえ聞こえなければとても鉄の塊とも巨大な機械とも思えない。一番近いのは子供の作った紙飛行機だろうか。

 飛行機はどんどん高度を下げていく。……空港の、オレンジ色の光。誘導する作業員の姿。停止した飛行機から客を静かに待ち受けるバスの影まで見えてきそうだ。

 実動速度の割に動作が優雅なまでに緩慢に見えるのは、数ある乗り物の中でも飛行機の特権だ。野球のボールもよく飛ぶが、優れたピッチャーの投げる球はエレガントですらある。それを佐保子は思い出した。飛ぶというのは、本来そういうものなのかもしれない。

 思い出しついでに佐保子は今日の曜日を確認した。

 金曜日。すっかり忘れていた。今日で第四週の平日が終わったのだ。GW突入だ。

 明日は出勤してこなくていいよ、と衣笠の幻が頭に浮かんできそうだった。どうやらにんにくの力も、少しばかり作用したようだった。

 

 馬鹿な子ほどかわいい。

 佐保子は溜息つきつき、今日も残業に励む。

 噂の新人たちは六月に入っても四人とも作業効率がおぼつかない。ダルビッシュは佐保子のストレスが強くなるとデートに誘う。彼なりの罪滅ぼしの形なのだろうが、これが佐保子の自尊心を結局傷つけているというところには気が回っていない。

 そもそもダルビッシュは生まれてこの方、誰かを本気で好きになることも嫌いになることもなかったのではないかと勘繰りたくなるほど冷たく澄んだ目をしている。佐保子はデートの話が出るたびにいつも断っているのだが、ダルビッシュは聞かない。

 衣笠は佐保子の奮戦を見ているようで見ていないようで、しかし佐保子は警戒を緩めなかった。

 その日はあっさりと来た。季節外れの辞令が下ったのである。

 田中佐保子に。

鳥取支店の米子営業所に行ってくれ。来月一日付で」

 佐保子は口をあんぐりと開けた。振り返ると、ダルビッシュは冷静な顔で仕事に勤しんでいた。手つきを見ると今日はいつもよりずっと軽快だった。なぜか口笛を吹いている。「ロッキーのテーマ」だ。へたくそで、音程も取れていなくて、耳が腐りそうだ。

 佐保子は席を立った。給湯室の冷蔵庫に向かう。中にはダルビッシュおとっときのグミが一か月分、入っている。

 晴天の窓を開ける。何袋もある中身を全部開けてぶちまける。赤いグミ、青のグミ、黄色のグミ、緑のグミ。グミグミグミグミ、グミの雨。

 人に当たらない距離に落としてはいるが、通行人がぎょっとして自分を見上げている。爽快だった。田中佐保子は笑う。けれど誰に向かって笑っているのか分からない。

 窓際に一つだけ、翡翠のような緑のグミが残っていた。それを口に入れて、佐保子は入社以来初めて、本日の早退を決意した。(終/原稿用紙14枚、4800文字強)